第1章 エジソンとシリンダー《筒》 Thomas
Edison
『音を波形として記録し、再生する』
最初に実用化したのは、トマス・エジソンであった。
彼はシリンダー(円筒)に錫箔(すずはく)を被せた機械をつくり、その錫箔に音(波形)を記録し、再生してみせた。
この発明は1877年に特許申請され、翌年2月に許可された。(合衆国特許番号200-511商品名 フォノグラフ)
この機械は大きく4つの部位に分かれていた。
@フォノグラフ (今で言う)カッティングヘッド
Aフォノグラム (今で言う)レコード
Bフォーネット (今で言う)ピックアップ(トーンアーム)
Cインテンディング・ポイント (今で言う)カッティング・スタイラス
*フォノグラフは広義に機械全体をさす言葉としても使われていた。
1878年1月に世界最初のフォノグラフ会社 エジソン・スピーキング・フォノグラフ・カンパニーがニューヨーク、ブロードウェイに設立された。
同年イギリスでもロンドン・ステレオスコーピック(立体鏡)会社がフォノグラフを製造、商品化している。
1880年代に入るとグラハム・ベル(人間の声を電気的に遠く離れた場所に伝える方法“電話”を開発、1876年にその発明品を市場に出すためにアメリカン・テレフォン&テレグラフ・カンパニーが設立された)、いとこのチェチェスター・ベル、チャールス・ティンターがヴォルタ研究所を開設。錫箔を被せたシリンダーの代わりに、蝋(ろう)を塗布した金属のシリンダー(蝋管)に改良した機械をグラフォフォンという商品名で売り出す。(1886年特許番号341214)
蝋管の利点は表面部分に彫り込みを入れるため、表面を削ると何度でも繰り返し使うことができた。
また、蝋管に掘り込みを入れるカッティング・スタイラス部分も、エジソンのものが固定式だったのに対し、可動式とし、シリンダーがスタイラスの下を横に動くのではなく、スタイラス部がシリンダー上を横に移動するようになった。1887年、アメリカン・グラフォフォン・カンパニー設立。
(のちにエジソンも、蝋管と可動式スタイラスを取り入れた改良型フォノグラフを開発、以後、両者は激しい販売合戦を展開する)
1887年実業界の大物ジェシー・リピンコットの尽力により、エジソン・スピーキング・フォノグラフ・カンパニーとアメリカン・グラフォフォン・カンパニーは合併、新たにノース・アメリカン・フォノグラフ・カンパニーとなる。リピンコットは販売を地域別に分担させそれぞれの地域に子会社を作るという販売方法をとり、その数は最大30社ほどになった。
クラシック音楽の最初の録音とされているのは、ヨゼフ・ホフマンが12歳のときにエジソンの研究所を訪問し、収録時間2分の蝋管を数本録音している。
イギリスでは、グーロード大佐がロンドンのクリスタルパレスで1888年6月29日のヘンデル・フェスティバルで《エジプトのイスラエル人》の一部を録音、これが世界最初のライブ録音となる。
作曲家ではブラームスが最初。1889年、エジソンのドイツの代理業者が彼を訪問し、ハンガリー舞曲の一部を録音した。
最初のオーケストラ録音は1889年。エジソンがニューヨークメトロポリタン歌劇場でのハンス・フォン・ビューロー指揮のコンサート。曲目は《マイスタージンガー前奏曲》、《ハイドンの交響曲》、《ベートーベンの交響曲3番》。しかし、この録音は販売されず、蝋管も残っていない。
初期には一回の録音で複数台数の機器を並べて複数のシリンダーが作られていたが、1892年3月には1つのシリンダー(マスターシリンダー)から150本のコピーがつくられるようになる。(ダビングによる複製)
この技術により、一般家庭向けにシリンダー販売が可能となる。1892年4月、ノース・アメリカン・フォノグラフ・カンパニーは家庭用シリンダーを製作する。機器(フォノグラフ)の価格は1台150ドルを越え、シリンダーは楽団の録音の場合、1本1ドル20セント、それ以外の録音は90セントだった。(機器それまで貸出しが主で、展示用の賃貸契約では40ドルだった)
1891年になると、早くもレコードカタログが登場する。コロンビア・フォノグラフ・カンパニーによって発行され10ページ程度のものであった。カタログページは1893年までに10ページから32ページに拡大した。(1888年にノース・アメリカン・フォノグラフ・カンパニーの製品貸出しを受けた数多くの子会社のなかで、もっとも大きな利益を上げた会社で、後にコロンビア・グラフォフォンと社名を変更する。1894年、ノース・アメリカン・フォノグラフ・カンパニー倒産後も資本系列を変えながら生き残り、CBSコロンビアに至った。)
イギリスではロンドン・フォノグラフ・カンパニーが商業録音を開始、フランスでもパテ兄弟が1894年に工場を開設する。
アメリカにおけるシリンダーの人気は1901年にその絶頂を迎えるが、その後新たに登場したディスク(円盤)にその座を奪われることとなる。1906年以降、シリンダーは市場から徐々に撤退し、1912年エジソンがディスクを製造するに至り、その歴史的使命を終える。
第2章 ベルリナーとディスク《円盤》 Emil Berliner
ディスク《円盤》の創始者ベルリナーはドイツのハノーヴァーに生まれ、1870年アメリカに移住、1877年、グラハム・ベルの電話を改良したカーボン・ボタン・トランスミッターに対して特許を申請、これがベル電話会社の関心を引き、その権利をベル電話会社に売却、巨額の利益を得る。一時ドイツへ戻るが、再び首都ワシントンに自分の会社を設立、※レオン・スコットのフォートグラフにヒントを得た、音の振動を横溝としてトレースする方法を採用した録音に専念する。
(※レオン・スコット---アイルランド系でフランスに住む植字工が1857年に考案した機械でフォートグラフと命名した。始めはシリンダーに音の波形を記録したが、後のモデルでディスク(円盤)を用いるようになった。)
4年に亘る努力の結果、油煙を塗ったガラスのディスク《円盤》をターンテーブルに乗せて回転させ、送りネジに取り付けたスタイラスによって音を横溝として刻む方法が生み出された。(1887年11月にドイツでは45048番、イギリスでは15232番で特許取得、アメリカでは1888年5月に7204番として特許取得)縦溝のシリンダー(円筒)を用いたエジソンの【フォノグラフ】に対して、横溝を刻んだディスク(円盤)を用いた、しゃべる機械を意味する商標名【グラモフォン】を3国すべてで登録する。その後亜鉛のディスクに被せた薄い脂肪膜に横溝を刻み、それを20分間、酸の溶液に浸す方法に改良、酸はスタイラスが脂肪を削り取った部分の亜鉛を腐蝕させることで音溝をしっかりと刻みこんだ。このディスクはシリンダーに比べて音質的には劣るが、量産性と対磨耗性においては、シリンダーを遥かに凌いでいた。
1894年数人の友人と親戚たちとともにユナイテッド・ステイツ・グラモフォンカンパニーを創設。1895年10月、ベルリナーはペンシルバイア鉄道会社等の資金援助を受けベルリナー・グラモフォン・カンパニーを設立、ディスク(円盤)レコードを市販し市場へ本格的に進出する。米国内では、当初、製造をベルリナー・グラモフォン社、販売をフランク・シーマン(広告業社)のナショナル・グラモフォン社、特許をユナイテッド・ステイツ・グラモフォン社で運営していた。ディスク拡大の契機となったのは、エルドリッジ・R・ジョンソンが考案したゼンマイ仕掛けで作動するグラモフォンの発売であった。この機器と、それで演奏する7インチのエボナイトのレコードは大好評を呼び、この成功をもとに、ヨーロッパ市場に売り込みを拡大させる。1898年イギリスにグラモフォン社設立、レコード(ディスク)プレス工場は1898年ドイツのハノーヴァーにヨーロッパでは初めて建設され(ドイツ・グラモフォンの前身、その後、制作と販売も行うようになる)続いて同年、ロシアとオーストリア、1899年にはフランスのパリにグラモフォン社が設立された。イギリス国内でも1903年にプレス工場が開設された。
一方、マスターを作る技術にも進歩が見られた。従来の亜鉛盤腐蝕法から、より優れたスムーズな音質のマスター製造が可能な方法(ワックスに金箔を被せる方法)がベルリナーの特許を侵害することなく、エルドリッジ・ジョンソンによって開発された。
しかし、シーマンとベルリナーとの良好な関係は長く続かなかった。1899年、ライバル社の特許訴訟(サウンドボックス《現在のレコードプレーヤーのピックアップに相当する部分》の構造で、特許を侵害しているとの訴訟)をめぐり、フランク・シーマンがライバル社に加担。
裁判は結局グラモフォン社が敗訴し、蓄音機の製造がストップしてしまった。スプリングモーターや部品を製造していたジョンソンは納品が出来なくなり、やむなく1900年、彼は新会社コンソリデイテッド・トーキング・マシン・カンパニー・オヴ・フィラデルフィアを立ち上げることとなる。この会社もシーマンに特許訴訟を起こされるが、今回はシーマンが敗訴。ジョンソンは内紛によって弱体したグラモフォン・カンパニーと1902年合併、ジョンソンは社名にこの裁判での勝利を意味するビクター(勝利者)を社名、及びレーベル名に使用、ビクター・トーキング・マシン社(ジョンソン60%、ベルリナー40%の株式比)が発足する。この結果ベルリナーと英国グラモフォンの関係は切れ、米国内でグラモフォンという商標も消滅した。
グラモフォン社の代名詞たるニッパー、この絵の原画は画家のフランシス・バローによって描かれた。彼はシリンダー(円筒式)フォノグラフを所有し、時折、自分の声を録音していた。黒いホーンから流れる主人の声に耳を傾ける飼い犬ニッパーの姿に触発されたバローは見事な構図の水彩画(題名はHIS MASTARS
VOICE)を描き、ロンドンで展示される。ロンドンに派遣されていた、ベルリナー・グラモフォンのウイリアム・オーエンがその絵を気に入り、2つの点を変更することを条件に1899年その絵を会社のために買い取った。2つの条件とは黒いホーンを見た目に鮮やかな真鍮のホーンに、シリンダー(円筒式)フォノグラフプレイヤーを、ディスク(円盤)グラモフォンプレイヤーに変更することであった。バローは条件どおり書き換え、絵の代金として、50ポンド、著作権料として50ポンド受け取った。1900年1月、ベルリナーはその絵を全米特許庁に商標として登録し、レコードの別紙解説に始めて使用する。その後、この絵はビクター・トーキング・マシン社に引き継がれ、会社の代名詞となってゆく。
英国でこの絵が初めて登場するのは1909年のことで、レーベルディスクに用いられた。(英国での商標登録は米国と同じく1900年、HIS MASTARS VOICEが登場するのは1910年で商標の一部として使用され、後に英国グラモフォン、そしてEMIの代名詞となってゆく。)
☛第1章と第2章につきましては、
音楽の友社 レコード芸術 1986年6月号〜1987年5月号
”レコードのギネスブック ” ロバート&シリア・ディアリング≪著≫ 中矢一義 訳
をほぼ要約したものです。
第3章 電気録音
音を電気信号に変える方法は1876年グラハム・ベルの電話機の発明によって実現し、エジソンのカーボン電話機によって一層の発展をみる。電話機には、マイクロフォンが内蔵されており、マイクロフォンが声を電気信号に変換していた。しかしその電気信号が微弱であったために、レコード制作にあたっては、この電気信号をレコード制作に利用することできなかった。
当時の収録方法はアコースティック録音又は機械式録音と呼ばれていた。演奏者や歌手が大きなラッパ(ホーン)の前に立って演奏しその振動をラッパの根元にある振動板(ダイアフラム)に伝え、その振動板に取り付けられたカッター針で回転するレコード原盤(ワックス盤)にカッティング(録音)した。録音できる帯域はおよそ300〜1.5キロヘルツ、のちに技術改良がおこなわれても200〜2キロヘルツが限界であった。それ故にその帯域にあった声楽や小編成の楽器の音楽が多く録音され、編成の大きなオーケストラ等はあまり録音されなかった。
1900年代になると微弱な電気信号を増幅する方法として真空管が登場する。1904年にフレミングにより2極真空管、1906年になるとリー・ド・フォレストにより3極真空管が発明される。この3極真空管の発明が電気信号を増幅することを可能とし、1920年台になると真空管の活用によりアメリカ国内では放送事業が急拡大する。
微弱な電気信号を増幅して、レコーディングに生かす試みは幾度かなされたようであるが、なかなか満足のいく結果は得られなかった。しかし1924年になると事情は一変する。ベル電話研究所(ウエスタン・エレクトリックの親会社であるAT&Tの1部門)の研究員(ジョゼフ・P・マックスフィールドとヘンリー・C・ハリソン)が電気録音に関する特許を取得し、電気録音の方法が確立される。録音できる帯域はおよそ50〜7キロヘルツ、それまでのアコースティック録音とは比較にならない別物の録音が可能となった。この方法はほぼすべてのレコード会社で採用され、以後電気録音がレコーディングの標準となり、それまで敬遠されていたオーケストラ録音等が積極的に行われるようになった。
第4章 アラン・ブラムラインのステレオ実験
ステレオらしき現象が最初に確認されたのは,1881年パリ国際電気博覧会が最初とされている。クレマン・アデルがパリオペラ座の公演の会場に複数のマイクを設置し、音声を生中継で転送して3km離れた博覧会場で再生して聞かせた。これは複数設置したマイクをたまたま両方の耳に受話器を置いて聞いたところ、偶然にも立体音に聞こえたという偶然の要素がもたらしたものと言われている。今日2本のスピーカーから発する音でステレオ効果を確認するものとは違ってヘッドフォンと同様な効果であり、バイノーラル効果と呼ばれた。このバイノーラルの仕組みを研究し今日のステレオ録音再生への道筋をつけたのがアラン・ブラムラインのステレオ実験である。
ブラムラインは、1924年ロンドンのInternational Western Electric(ウエスタン・エレクトリック社が支部として設立しのちに、Standard Telephones and Cables〔STC〕へと社名が変わる)に入社、同社の最先端の通信、通話、音響技術を吸収し、実績をあげる。1929年に合併前の英国コロンビアに転職、任された仕事は自社製録音再生機材の開発であった。(世界恐慌の不況下、1931年に英国コロンビアとグラモフォンが合併しEMIが誕生する。)当時、録音機材の多くはウエスタン・エレクトリック社とのライセンス契約であり(電気録音に関しては系列会社のベル研究所が特許を持っていた)、経費削減の必要上どうしてもベル研究所の特許に抵触しない自社開発の機材が必要であった。彼はウエスタン・エレクトリックの機材がムービィングアイアン型のカッターヘッドであることに着目し、ベル研究所の特許に抵触しないムービィングコイル型のカッターヘッドにムービィングコイル型のマイクロフォンを装備した録音機材を開発、その要請にこたえた。これらの開発とともに行われていたのが、ステレオ録音への挑戦である。それは1931年12月14日「サウンド-伝達、記録、再生に関する改善」と題した特許出願に結実し、英国特許番号394325として1933年6月14日に受理される。
この特許の中には四半世紀後に実用化された、45/45方式のステレオ録音と再生に関する原理特許が含まれている。
ウィキペディアでブラムラインを検索すると特許の主なものは以下のように記されている。読んでもよく理解できないので、原文といい加減な訳ものせておきます。
➀ A "shuffling" circuit, which aimed to preserve the
directional effect when sound from a spaced pair of microphones was reproduced
via stereo headphones instead of a pair of loudspeakers
間隔をおいて配置された1対のマイクロフォンからの音が1対のスピーカーの代わりに、ステレオのヘッドホーンを経て再生された時に、方向性の再現をめざした「シャッフル」回路。
➁ The use of a
coincident pair of velocity microphones with their axes at right angles to each
other, which is still known as a "Blumlein
Pair"
軸が互いに直角にある1対の同期したマイク(velocity microphones)の使用(現在も「ブラムラインPair」として知られています)
➂ Recording two
channels in the single groove of a record using the two groove walls at right
angles to each other and 45 degrees to the vertical
(レコード面に対して)、垂直方向に 45度(V字型)で2つの溝の壁を使用してレコードに2つのチャンネルを記録すること。
➃ A stereo
disc-cutting head
ステレオレコードのカッティングヘッド
➄ Using hybrid
transformers to matrix between left and right signals and sum and difference
signals
右信号と左信号を和信号と差信号にmatrixするためにハイブリッドトランスを使用すること。
ムービィングコイル型のカッターヘッドを装備した録音機材によるステレオ録音・再生のテストは1931年頃に始まり、1934年には終わりを迎える。何枚かのテストカティングが行われたが、市販されるには至らなかった。当時の78回転のSPレコードでは、十分な成果をあげることができなかったのがその理由とされる。
この埋もれた歴史遺産であったが1988年に突如日の目を見る。12インチ2枚組で発売されたのである。ステレオサウンド86号に海老沢徹氏がそのレコードの詳しい解説をされている。興味のある方はご一読ください。
第5章 磁気テープによる録音
音声信号をを電気信号に変換して磁性体に記録する録音方式は、アメリカ人オバリン・スミスが1888年にその原理を発表しているが、初めて実用化したのはデンマークの発明家ヴォルデマール・ポールセン(Valdemar Poulsen 1869年-1942年)が1898年に完成させた、記録媒体にピアノ線を利用した鋼線式磁気録音機(ワイヤーレコーダー)“テレグラフォン(Telegraphon)”である。
鋼線式磁気録音機もその後登場する磁気テープ録音機も、磁性媒体を記録ヘッド上を通過させるという原理は同じである。録音すべき音を電気信号に変換し、それを録音ヘッドに供給すると、磁性媒体の磁化パターンがその信号に合わせて変化し、それを鋼線なり磁気テープに記録する。再生ヘッド(録音ヘッドと同じでもよい)は針金やテープの磁場の変化を検出し、それを電気信号に変換する。
磁気録音機はピアノ線の扱いが不自由であったがそれを劇的に解決したのがプラスチックを原料とした“磁気テープ”である。
1928年にドイツ人技術者のフリッツ・フロイメル(Fritz
Pfleumer)が粉末状にした磁性体を紙テープに塗布したものを開発しドイツで特許を取得。この特許は当時ドイツの巨大電機メーカーであったAEGに1931年に譲渡される。その後、化学メーカーIG・ファルベン (IG Farben現在の BASF社)の協力によるテープ材質の改良がおこなわれアセテート樹脂を主体とした磁気テープが完成する。1935年にこの磁気テープを使ったテープレコーダー“マグネトフォン(Magnetophon)”を販売するが当初は音質面での評価が芳しくなかった。しかし度重なるテープ材質の改良と、交流バイアス方式が発見させるに至り、1942年その方式を放送で採用したマグネトフォンは音質が格段に向上、当時の世界最高水準の長時間高音質録音が可能となった。(交流バイアス方式は1938年の永井健三、五十嵐悌二、1939年のドイツの国家放送協会のヴァルター
ヴィーベルWalter Weber、アメリカのマーヴィン・カムラスMarvin
Camrasによって個々に発見されそれぞれの国で特許申請されている)
ドイツの敗戦後、マグネトフォンの技術は、連合国側に移転されることとなる。連合国の技術調査団が持ち帰った技術資料の内容は無償で一般公開され、アメリカでは各メーカーが競うようにテープレコーダーの研究開発、製品化が進められる。1947年には3M社が磁気録音テープを発売した。1948年にはLPレコード登場が登場し、高音質へのニーズが高まる。レコード会社各社は高音質と長時間録音が可能なテープレコーダーを相次いで導入する。各国の放送局でも長時間放送や音声取材の手段として活用されるようになり、特に取材ではポータブル・テープレコーダーが広く用いられた。
第6章 LPレコード登場
SPレコードの欠点はその演奏時間の短さに尽きる。レコードの演奏時間を長くする方法は2つ。
一つは回転速度を落とすこと、もう一つは溝の幅を狭くすることである。しかし溝の幅を狭くすることはSPレコードの材質であるシェラックという物質では到底無理な話であった。また回転速度を落として安定した再生音を得るには、それに見合った低速で安定したターンテーブルとピックアップが必須であった。ところが第2次世界大戦でプラスチックの分野で飛躍的発展を見せる。プレス技術も発達しプラスチックの1種類であるポリ塩化ビニールでレコードを作ることはさほど問題ではなくなっていた。こうなるとあとはターンテーブルとピックアップの問題となるが、それも第2次世界大戦数年で解決をみることとなる。
1948年6月米国コロンビアレコード社がレコードの新規格“LPレコード”を発表する。直径12インチ (30cm)、回転数は1分間33 1/3回転(3分間で100回転)、長時間再生できることから、LP (long playing) と呼ばれた。音溝の幅は1ミル(1000分の1インチ、SPの3分の1)、演奏時間」は発表当初は22分半程度であった。(1年後にはカッティング技術の向上により30分以上の録音が可能となった。)メリットは演奏時間だけにとどまらず、周波数帯域が30ヘルツ〜1万5千ヘルツと人間が聞くことができる可聴帯域をほぼカバーできるまでとなり、高域ノイズも驚くほど減少した。プレイヤーも同時に発売され、その音質の良さで大きな成功を収める。コロンビアは同業他社にも参入を呼びかけ1949年9月には初のLP専門のカタログが発行される。(ボストンのレコード販売業者、ウイリアム・シュワンのシュワン・カタログ第1号にはアレグロ、アーティスト、キャピトル、チェトラ、ソリア、コロンビア、コンサートホール、デッカ、ロンドン、マーキュリー、ポリドール、ヴォックスのレコード会社のLPが掲載)レコード大手の会社で参入しなかったのはRCAビクターのみであった。
当時ビクターは別規格のレコードを開発しており、それは1949年レコードの新規格EP(Extended Playing Record)として発表される。直径17cmで収録時間は5分程度。回転数から「45回転盤」とも呼ばれる。オートチェンジャー機能を持たせるため中央に大きな穴をあけてありその形状から別名“ドーナツ盤”ともいわれた。
当初はLP対EP、33回転対45回転の規格競争が勃発したが、2年程度で終息に向かう。クラシックのような長い曲についてはLP、ポピュラー音楽はEPというように棲み分けが出来上がり、その結果ポピュラー音楽に強いレコード会社のみならずすべてのレコード会社がこのEP規格のレコードの販売を始めた。ビクターも1950年1月よりLPレコードの販売に踏み切った。ヨーロッパにおいても1950年に英国デッカ、1951年ドイツ・グラモフォン、フィリプス、1952年EMIでもLPの生産が開始された。かくしてEP、LPの出現は瞬く間にSPを席巻していった。
❊しかし、いいことずくめのモノラルLPではあるが、問題点も存在した。イコライザーカーブの存在である。音の性質として低音や大きい音は振幅が大きく逆に高音や小さい音は振幅が小さい。よって特に低音の場合レコードの溝に振幅が収まり切れなくなってしまい、逆に高音は盤面のノイズに埋もれてしまう。そこで考えられたのがレコードに音を記録するときに低音の音量を下げ、逆に高音は音量を上げるという方法がとられた。これによってレコードの溝にうまく音を記録することができるようになり、再生する場合はイコライザーアンプを通して低音を上げ、高音は下げるという方法がとられた。問題はその低音、高音をどの周波数帯域で減衰、増幅するかということであり、当時は各社各様のカーブを設定してレコード作りをしていたようである。当時大手のレコード会社各社はそれぞれオーディオ機器も併せて販売していたので自らが販売していたレコードに合わせたイコライザーカーブを組み込んだオーディオ機器を販売していたのであろう。(低音・高音の録音特性に関してはSPの時代から各社の対応はバラバラであったが、LPになりより鮮明な音が聞けるようになったことで問題が顕在化したのか、又はそれまで富裕層相手のスモールビジネスだったレコード産業がLPの出現により一般家庭にまで入り込むビッグビジネスにまで成長したからか?)
イコライザーカーブが統一されたのはアメリカレコード協会 (Recording Industry Association of
America, 略してRIAA レコード規格の標準化を目的に1952年に設立された) が1953年6月にRCAビクターのLP・EP用の録音・再生カーブであるNew OrthophonicをRIAAカーブとして採用し規格化したによる。そして1956年までにヨーロッパを含む世界各国がこれを採用していったようである。
第7章 ステレオレコードの出現
ステレオ録音が開始されたのは、大手各社とも1954年ごろとされており、磁気テープの形でレコードに先立って発売されている。レコードの発売が遅れたのは、統一した規格が定まっていなかったことが大きな理由である。
ステレオレコードの規格についても英デッカと米ウエストレックスとの間で規格競争がおこる。英デッカが提唱したのが左右の音を縦振動、横振動に分ける“VL方式、片や米ウエストレックス(ウエスタンエレクトリックの子会社)はアラン・ブラムラインが提唱した45/45方式である。アメリカレコード協会が1957年にステレオの統一規格として採用したのは45/45方式、翌年各社からステレオレコードが発売されることとなる。大手各社でいえば、1958年6月RCAビクター、7月米国コロンビア、英国デッカ、10月ドイツグラモフォン、EMIが発売に踏み切っている。
第8章 RIAAカーブの考察
第6章においてRCAビクターのLP・EP用の録音・再生カーブであるNew OrthophonicをRIAAカーブとして採用し規格化したとのべたが、なぜビクターカーブが採用されたかを考えてみたいと思う。
アメリカの音楽市場において1940〜60年代ぐらいまで最も隆盛を極めたオーディオ機器はジュークボックスであった。これは疑いようのない事実である。
以下は日本語のウィキペディアからの引用です。
【ジュークボックス(英:
jukebox)は、自動販売機(自動サービス機)の一種で、本来、店舗に置き、内部に多数(数十枚から2000枚程度)のシングルレコード(例外的にCDなど)を収納し、任意の曲を演奏させ楽しむために消費者が硬貨を投入する事で収益を得る機械である。
ジュークボックスは当初から極めて収益性の高い産業だった。
1940年代から1960年代中盤まで人気が高く、特に1950年代に大流行した。
当時はレコードやプレーヤーが高価であり、特に一般的な黒人層には手に入れられないものであつた。
1940年代中ごろ、アメリカで生産されたレコードの4分の3がジュークボックスで使われた】
(以下は米国のウィキペディアより転用 グーグル自動翻訳)
【Billboardは 1950 年代のジュークボックス プレイを測定する記録チャートを公開しました。
これは一時的にHot
100の一部になりました。
1959 年までに、ジュークボックスの人気は衰え、ビルボードはチャートの公開を停止し、ジュークボックスのプレイ
データの収集を停止しました】
以下は評論家の岡俊雄さんがお書きになった”レコードの世界史”巻末に掲載されている日米のレコードの売り上げデータの一部です。
米国のレコード生産(出荷金額) |
日本のレコード生産 |
|||||||
単位100万ドル |
(単位1,000枚) |
|||||||
年 |
金額 |
年 |
SP |
EP |
LP |
|||
1945 |
109 |
1945 |
不明 |
|
|
|||
1946 |
218 |
1946 |
3,420 |
|
|
|||
1947 |
224 |
1947 |
8,847 |
|
|
|||
1948 |
189 |
1948 |
11,962 |
|
|
|||
1949 |
173 |
1949 |
16,860 |
|
|
|||
1950 |
189 |
1950 |
11,828 |
|
|
|||
1951 |
199 |
1951 |
14,904 |
|
|
|||
1952 |
244 |
1952 |
17,806 |
|
|
|||
1953 |
219 |
1953 |
19,357 |
|
52 |
|||
1954 |
213 |
1954 |
15,897 |
455 |
209 |
|||
1955 |
277 |
1955 |
12,781 |
1,172 |
547 |
|||
1956 |
377 |
1956 |
11,540 |
2,379 |
1,019 |
|||
1957 |
460 |
1957 |
19,877 |
3,889 |
1,821 |
|||
1958 |
511 |
1958 |
8,520 |
5,417 |
3,264 |
|||
1959 |
603 |
1959 |
5,536 |
8,726 |
5,127 |
|||
1960 |
600 |
1960 |
3,078 |
13,530 |
7,396 |
日米で金額ベースと枚数ベースで単純比較はできないところであるが、以下のことは推察される。
このデータから読み取れることは、米国においてLPが発売されたからと言って売り上げが急に増えたわけではないこと。LP、EP、SPの併売であることを考えれば、LP、EPの売り上げは日本のデータからも分かるように当初はかなり少額であった。特にLPの売り上げはかなり苦戦していたと思われる。
1950年後期までSPがかなり販売されていたこと、そしEPの売り上げ比率が比較的高かったことが想像できる。
ジュークボックスは(シングルレコードを収納する目的から)当初からEPを収納する機器を作り、おそらくイコライザーカーブはEPの提唱者であるRCAビクターのカーブしか搭載しなかったのではないだろうか。
当時の売り上げの多くをジュークボックス機器に依存していたレコード業界は(なにせ、“1940年代中ごろ、アメリカで生産されたレコードの4分の3がジュークボックスで使われた”とのことらしいので)EPを作ることに関してはRCAビクターのカーブで作っていたのではないか。
下記の記述を再度載せます。
(Billboardは 1950 年代のジュークボックス プレイを測定する記録チャートを公開しました。
これは一時的にHot
100の一部になりました。米国のウィキペディアより転用 グーグル自動翻訳)
1954年のRIAAの提唱というのはその辺の事情が大きくはたらきその宣言に至ったと思われる。
そしてもしジュークボックス機器にRCAビクターのカーブが搭載されていたら、EPにおいては強い拘束力があったと思われる。
しかしそれほど収益の上がらないLPにおいて事情はもっとおおらかで、暫時変更していったと考えるのが妥当であろう。